リトル・トリーについて

図書館で「リトル・トリー」という本を借りてきました。以前に書評でなかなか良さそうだったので手に取ったのです。著者の自伝的な小説だそうで、チェロキーインディアンの混血児が、大自然の中で祖父母に、素朴で力強いインディアンの自然観を教わりつつ成長していく・・・という内容です。恥ずかしながら告白しますが、わたし読んでて号泣しちゃいました。大変いい本だと思います。・・・・さてここまでの話なら別にわざわざホームページに書くほどのこともない、単なる読書感想文なんですが・・さてお立ち会い、最近うかうか感動もできないって世知辛い話さ!

ことの始まりは、この作家ほかに何か書いているかしらんとInfoseekでリトル・トリーを検索したところ発見した

http://www2c.airnet.ne.jp/assisi/Influence/Native/Nativebook/Biography.htm

というページ。なんでも実はリトル・トリーは自伝的小説でもなんでもない、いわば偽書のような捏造された物語であり、それだけならまだしも作者のフォレスト・カーターは

「実はKKKのメンバーでレイシスト」

と憤激した様子で書かれているではあーりませんか。そりゃ世の中には女房子供を泣かしながら、しれっと人生を語る類の人もいるし、作者の人間性と作品自体は別物だとわかっちゃいても、感動の熱い涙も冷めやらぬうちにいきなりコレ見て、いくらなんでもそのギャップに仰天しましたよわたしゃ。ミーの感動は裏切られたのか!?と英語のホームページも一応見てみたら、確かにそういう論争はあったみたいで、さすがにKKKとまでは言わないまでも、かなり容赦ないツッコミがあったことは窺えます。さて、これを一体どう判断すべきか?

実はワタクシ、これでも世間の「あざとい」ものには相当鋭い嗅覚を持っている自信があります。当然自身があざとくインチキな人間だからでありますが、今の今まで私は「一杯のかけそば」にも「おしん」にも「エヴァ」にもひっかからなかったことを密かに自慢しております(情けない自慢だなあ)。そんな私の「あざとフィルター」を介しても、やっぱりこの「リトル・トリー」というのは、その経緯の実際はともかくとして、真摯に語るべきを語った作品であると判断せざるを得ません。しかし冷静に見てみるとこの本、確かに出版社がちょっとエコロ&精神系で、借りたときはなかったけど書店に並んでたときは

「雄大な大自然、久々の大きなすがすがしい感動が私を襲った。すぐに20冊ほど買って知り合いに配った。 by倉本 總」

などという、かなりヤバい帯がついていたそうで(配るなよ20冊も)そっち側の危険信号もたしかに濃厚です。

どうやらこの「リトル・トリー」にオッケーを出すのか出さないのかというのは、結構私のアイデンティティにからむ大問題に発展しそうなカンジになってきました。

最初にとりあげたホームページは、よく見たら相当行かなくてもいい領域に入っている方の筆になるもののようで、(いきなりアッシジの聖フランチェスコにシモーヌ・ヴェイユときたもんだ)そもそものアメリカにおける論争に関する情報も絶対的に不足していて、果たしてまじめな問題だったのか、単なるタブロイド的センセーショナルな話題作りだったのか全然掴めません。(シートン動物記だって、発表当時は「見てきたようなウソを書くな、オマエは熊か!」と自然主義文学者に激しく突っ込まれたそうだし)大体チェロキーの血を引く人間がKKKとか入れるとは思えないんですけど・・・。

とにかく、私ハラくくりました。

「リトル・トリー」は内容において必ずしも事実に則していないかもしれないが、私は断固評価の立場をとる。その文学的価値でなく、創作に対する真摯さという点で。

以上です。 もし実際の所が

「ケケケ〜ちょろっとインディアンの泣ける実録モノなんかサクっと書いちゃって、エコロバカ相手に大儲け〜十杯のかけそば〜」

だったりした場合には、私をアホウとののしって下さって結構です。

(本当にそんなヤツだったらどうしよう、フォレスト・カーター・・・)

はあ、気持ちよくマクラを涙でぬらして寝ようと思ったのに・・情報化社会ってイヤねえ。

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